音楽という<真実> 新垣隆 読み終わり

「音楽という<真実> 」 新垣隆著を読み終わった。正直、後半の佐村河内守氏との関わりが深くなってきた展開であまり面白くなくなってしまった。佐村河内守氏も、初めのうちは、自分なりにイメージを膨らませて細かく指示書を書いて頑張って制作にのぞんでいた(面もあった)。それは意外で面白かった。元々おかしな人ではあったが、『耳の聞こえない孤高の天才作曲家』という自己アピールを始めてから更に奇行が目立つようになった。とにかく壮大な表現を好むのは素人の特徴だと本書に書いてあった。

趣味にしろ嗜好にしろ、クラシックや作曲家に対するイメージのもちかたにしろ、彼は完全にふつうの人なんです。彼はないか超然としたイメージをまとおうとしていたようですが、それ自体が非常に凡庸なことなんです。

「音楽という<真実> 」 新垣隆著

新垣氏はもともとクレジットにこだわりがなかった。商業音楽プロジェクトを完成させるための影武者(ゴーストライター)とわりきって制作に徹していた。現在も著作権フリー音源などは、魅力的な素材であっても作家名はわからないことが多い。そういうものだと思って、作曲に専念していた。佐村河内氏は音楽の知識や才能はないが、相手を恐れず飛び込んで仕事をとってくる能力はあった。それで新垣隆×佐村河内守のようなチグハグコンビができあがってしまった。本書では佐村河内氏の考えはまったくわからない。ただ思い込みの強い人であることはわかる。人間性に関しては難ありだが、お互いに欠けた部分を補い合うように機能していた部分もあったと考えると、バンドにも近い形態だったと言えるように思う。

佐村河内氏は、素人ゆえの怖いもの知らずの勢いでペンデレツキやピーター・ゼルキンにスコアを見せに行って断られたりする一方で、横尾忠則・一噌幸弘といった人々を製作者に引き込んでしまう面もあったのだから、侮れないというか何というか。世の中の人々は『勢いのある人間』というのに弱いのだな、と思った。

『鬼武者』はまだゲームのコンテンツなわけですから、言ってみれば私もそれを作るためのスタッフのひとりで、商品を成り立たせなければいけないと考えていました。彼は茶番を演じてはいるけれども、まず大事なのは、音楽、そして商品がいいものに仕上がるかどうかであって、作曲すること自体には何の問題もないと思っていました。クレジットがどうなろうと、そんなのは別にいいんじゃないかと。ただし、そこから彼が「芸術家である」というアピールを始めてしまうと話は別です。

「音楽という<真実> 」 新垣隆著

巻末の登場人物一覧。16ページ分。

「音楽という<真実> 」 新垣隆著

2014年に“ゴーストライター騒動”で世間の注目を集めた作曲家・佐村河内守(さむらごうち まもる)氏の手がけた新たな楽曲が、YouTubeで公開されている。当初は名前を伏せて配信していたが、その後「佐村河内守 作曲・制作」と明かすことを決意し、公開した。

以下の動画は今年4月に公開された佐村河内守の新曲。「音楽という<真実> 」 新垣隆著を読むと、佐村河内氏が元々この程度の能力を持つ人だとわかる。威厳があり悲壮で壮大なものにこだわる特徴がよく出てる。正直、私には未消化のつなぎ合わせ音楽のように聴こえてしまう所もあるが、現代音楽をあまり聞かない層にはこちらの方が「わかりやすい」のでないかとも思う。